映画『ミッドサマー』は、北欧の片隅で繰り広げられる異教的儀式と、精神的な崩壊を描いたフォークホラーの傑作です。
本作において象徴的存在として登場するのが、“ルビン”という一人の青年。
彼の無言の存在感と神秘的役割は、観る者に不穏な印象を残します。
また、マークの“下半身”に関する儀式的描写も、共同体が持つ価値観や排除の構造をあらわにする重要なエピソードです。
本記事では、「ミッドサマー」「ルビン」「マーク下半身」「考察」という4つの視点を軸に、ホルガ村の歪んだ論理と象徴性を深く掘り下げていきます。
フォークホラーの中でも特異な作品として語られる本作を、多角的に読み解いてみましょう。


ミッドサマー ルビンが象徴するホルガ村の狂気と神聖性

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ミッドサマーに登場するルビンとは何者か
映画『ミッドサマー』に登場するルビンは、スウェーデンの片田舎にあるホルガ村で暮らす青年です。彼は村において極めて特別な存在とされており、その理由は彼の出生にあります。近親婚によって生まれた彼は、先天的な障害を持っているとされていますが、それゆえに”曇りなき心”を持つ存在として、神聖な役割を担っているのです。
ルビンは村の聖典とも言える『Rubi Radr(ルビ・ラドール)』の記録者とされており、彼の描いた絵が村の教義や未来を形づくっているという設定です。台詞がほとんどない彼ですが、その存在感は圧倒的。見る者に強い印象を残します。
近親相姦と純血思想がルビンに与えた意味
ルビンの存在は、ホルガ村が持つ独自の価値観と密接に関係しています。この村では、純血を保つことが重要視されており、外部の影響を排除するために、意図的に近親婚を行ってきたとされます。そうして生まれたルビンは、一般的な視点から見れば障害を持った人物ですが、村ではその”不完全さ”こそが”完全なる器”として崇められているのです。
この価値観は倫理的に大きな問題を含んでいますが、村にとっては不可侵の信仰体系。観客にとっての違和感こそが、この物語の核であり、ルビンのキャラクターを通して提示される宗教的・文化的な歪みでもあります。
ルビンとミートパイの関係に見える儀式的暗示

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劇中には不穏なミートパイのシーンがありますが、明示的にルビンがそれに関与しているわけではありません。ただ、村の価値観において死体や肉体が儀式に用いられる可能性を考えると、ルビンの描く聖典にこれらの行為が正当化される根拠が描かれているのではないかという推測が成り立ちます。
実際、聖典は抽象画のようなもので、解釈は長老たちが行っており、ルビンはただ「純粋な手」でそれを描く役割を果たしているに過ぎません。ミートパイのシーンの不気味さは、このような“無垢が正義になる”歪んだ構造を映し出しているとも考えられます。
ルビンが記録する聖典「Rubi Radr」の役割とは

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Rubi Radrは、ルビンが無作為に描く模様や図形をもとに、村の長老たちが儀式の指針を決めるための聖典です。この設定は、現実世界におけるオラクル(神託)や預言者的な仕組みに似ています。
彼が描いた内容が絶対視されることで、村の秩序が保たれているわけですが、実際にはその解釈をコントロールすることで支配構造が生まれているとも言えるでしょう。つまり、ルビンは自らの意志とは関係なく、村の制度に組み込まれている存在なのです。
ルビンとマーク下半身の儀式的つながりを考察
劇中では、マークというキャラクターが“スキン・ザ・フール(愚者の皮剥ぎ)”の儀式に巻き込まれます。彼の皮膚ははぎ取られ、別の人物によって着用されるという衝撃的な描写がされます。
この儀式とルビンの存在に直接的な関係はありませんが、どちらも「象徴の身体化」という共通点があります。マークの皮膚は愚かさの象徴として用いられ、ルビンの身体は神聖な器として崇められる。いずれも身体が意味を持ち、それが共同体の維持に用いられている点で非常に似通っています。
ミッドサマー ルビンに込められた映画的・思想的メッセージ

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ルビンの見た目とホラー演出における記号性
ルビンの容姿は一目で異質だとわかります。顔の歪み、動きの緩慢さ、無言の存在感――これらはすべて映画的な演出として「神秘性」と「恐怖」の両方を担っています。
彼が登場する場面では、音楽やカメラワークが緊張感を高めるように設計されており、まさに“視ることで信じさせる”という演出がなされています。
ミッドサマーにおけるマーク下半身の皮剥ぎ儀式との対比

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再度取り上げると、マークの“皮”が剥がされ、別人がそれを装着するシーンは、外部者がコミュニティに取り込まれる(または処分される)ことを象徴しています。これは“支配”や“同化”のメタファーであり、ルビンの純粋な血統による“支配”とは逆の形で村の価値観を伝えています。
このように、ルビンとマークの存在は、正と負の両極を象徴しており、村が持つ二重の価値観を浮かび上がらせます。
ルビンが語らないことが示す宗教的「器」としての存在
ルビンは終始無言であり、台詞もありません。このことが彼を一層“神聖な存在”として際立たせています。言葉を発さないことは、意志を持たないことの暗示であり、それゆえに“純粋”とみなされているのです。
これは宗教的な文脈において、預言者や器としての人物像によく見られる特徴でもあります。受動的な存在が絶対的な影響力を持つという逆説的構図は、本作が描く狂気の根源でもあります。
ミッドサマーを通して浮かび上がる村と個人の関係性
『ミッドサマー』では、個人が共同体に吸収されていく過程が丁寧に描かれます。ダニーが村に受け入れられ、最終的にはメイ・クイーンとなるように、ルビンもまた“純粋”という名のもとに共同体の中心に位置づけられていきます。
村にとって重要なのは「役割の維持」であり、個人の意志や感情は二の次です。この価値観は現代社会とは真逆のものであり、観客に強烈な違和感をもたらします。
考察:ルビンが映し出す集団と排除の構造

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ルビンは村にとって欠かせない存在であると同時に、“違い”を持つ者がどのように共同体に取り込まれ、利用されていくかを示す象徴でもあります。
障害者を神聖化するという行為には、ある種の残酷さが伴います。そこには同情ではなく、道具化の視点があり、それが共同体の秩序を支える仕組みとなっている。これはフィクションの世界にとどまらず、現実の社会構造にも通じる問題提起です。
フォークホラーとしてのミッドサマーにおけるルビンの意義
『ミッドサマー』はフォークホラーというジャンルに属し、古い信仰や儀式、自然との共生をテーマに据えています。その中でルビンは、まさに“自然の意志”や“神の器”として配置されています。
彼の存在は、科学的思考や合理主義では理解できない異質な論理の象徴であり、観客はそこに“恐怖”と“畏怖”を感じるのです。
ミッドサマー ルビン:まとめとその象徴性の再評価
まとめると、ルビンというキャラクターは、『ミッドサマー』という作品において、宗教性、身体性、社会構造、文化的排除、フォークロア的象徴など、複数の意味を担った極めて重要な存在です。
彼の無言の姿と神秘的な立ち位置は、村の狂気を正当化する道具であり、同時に観客に倫理的な問いを突きつける存在でもあります。
彼を通じて我々が考えるべきは、「異質なものをどう受け入れ、どう扱うか」という現代にも通じるテーマです。